螺旋状の道のり
宮廻正明


松葉にとても興味があります。葉脈は左右交互に伸びて巧くバランスをとっています。特に桧葉には学ぶこと がたくさんありました。落ちた松葉は、細く長い割には不思議と一本も折れていません。よく観察してみると、 一本一本が螺旋状によじれており、かかる力を分散しているのです。折れないように螺旋という知恵を備えて いるのです。
創造するという行為もまた、自然と螺旋というベクトルを共有しています。つまり、日本画を描くということ と松葉の構造が相似形であるということです。道端に落ちている松葉から意識を廻らしていくと、頭の中には 宇宙が広がりました。
人はとかく物事を極めたがります。 しかし、「きわ」とは同時に「おわり」を意味します。つまり、「極める」 ということは「終わってしまう」ことでもあるのです。極めた挙げ句は、「昔はよかった」と過去を振り返って 誇り、懐かしんで生きていくことになるかもしれません。
速水御舟が「梯子の頂上に登る勇気は貴い。さらに、そこから下りて来て再び登り返す勇気をもつ者は さらに貴い」と言っています。何かを極めてそれに満足せず、更なる極みを求めて挑むこと。それは、勇気を もって「極めない」ことで更に進み続けることでもあるのです。
山登りは、登り切ったら下ることになります。「極めた」途端、下りるだけになってしまいます。もし、登り 続けたいのであれば、山を螺旋状に回り道をしながら登っていくことです。頂上のみを目的として、一直線の 最短ルートで登るのではなく、なるべく遠廻りをして行けば、それだけ山登りを楽しめます。ただ、螺旋状と いっても、最初の径が小さいとすぐに頂上に着いてしまいます。最初の径を大きく、出来るだけ大きくして おけば、一生をかけて限りなく高いところに登ることも可能でしょう。現代は、短時間でたくさんのことが 出来る人に能力があると思われがちです。しかし、極めない人生とは、遠廻りをし、その行間を楽しみ、豊かに しつつ径を詰めることによって、そこで生まれたエネルギーを高さに変える修行とも言えます。
日本画は、造形思考と世界の技術の宝庫です。そして、そこにはものを造り続けるためのヒントがたくさん 内包されています。
極めないでより積極的に螺旋状に修行を積み、自らの心をとらわれから解放し、複数の次元を行き来し、 自然や他者を水のように受け入れるようになりたい。
絵を描くならば、いつかは自分を超越したいものです。

アトリエにて 写真 / 森山雅智
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